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レッド石黒さんの遺書

千円拾った

10円や100円ではない。
千円だ。
千円拾う経験は長い人生のうちに全くないわけではないが、そう何回もあるものではない。

子供の頃、お祭りが終わって静けさを取り戻した日曜の夜にこっそり神社を回るのが習慣だった。
祭りの片付けは大人たちの手によって行われるのだが、なにぶん神社の明かりは暗くて目が行き届かない。
テキ屋さんが去った後、何軒かの神社を回り、目を凝らして隅々を見渡しながら境内を一周すると、大概いくらかの稼ぎにはなったものだ。
ほとんどは10円玉や100円玉の小銭なのだが、まかり間違って千円札を見つけた時には、それはそれは小躍りするほど嬉しかったことを思い出す。

話がそれた。
今回千円拾ったのは事務所のドアの目の前だ。
神社の境内ではない。
金曜日、仕事が片付いたのが23時40分頃。
外に出て事務所のドアに鍵をかけて帰ろうとしたその時、ふと足下を見たらそれが落ちていたのだ。

日中に千円札が落ちていれば当然気がつく。
最後に事務所のドアを開けたのが15時頃だから、それからおよそ9時間弱の間に何者かがそこに落としたことになる。
しかし妙だ。
その9時間弱の間、来客は一人もなかった。
チラシのポスティングもされていない。
事務所のビルはもはや廃墟寸前なので、そこに生息する者も足を運ぶ者もそうはいないはずだ。
少なくとも事務所のある2階のフロアを公然と出入りしたのは自分だけだと思う。
その日は9月と思えないくらい蒸し暑く、風もほとんどなかった。
どこからか風に乗って運ばれてきたとも思えない。
そして何よりその千円札は正月のお年玉のように、くっきりと2つに折りたたまれたピン札だったのだ。

発想を変えてみる。
それは拾ったものではなく、いただいたものなのかもしれない。
自分宛に届けられた千円。
事務所を出たら明らかに気づく位置に、誰かがそっと置いていった千円札。
しかしいったい誰が何のために?

不老不死についてたまに考える。
間違って不老不死の薬を飲んでしまった時のことだ。
もしそんなことになったら、金輪際死ぬことも年をとることさえもできなくなる。
周りの人たちが皆年老いて死んでいっても、あるいは人類が死滅しても、自分だけは何千年、何万年と、永遠に生き続けなければならない。
それは本当に恐ろしいことだと思う。

お金はそんな薬にとてもよく似ている。
毎月月末、ATMに足を運び、当月の入金確認をする。
これならあと何ヶ月は事業を続けられる、少なくともあと何ヶ月は生きていける、と計算するのだ。
お金がなくなったら事業は畳まざるをえない。
食べられなくなったら飢死せざるをえない。
ゲームオーバー。
シンプルでわかりやすい仕組み。

しかし、もし、もしもだ。
これから毎日事務所のドアの前に千円札が置き続けられていったらどうだろう。
何もしなくてもお金が手に入る生活。
いつまで経ってもお金がなくならない生活。
そんな生活に自分は果たして耐えられるだろうか。

ベーシックインカムについての議論がある。
それについて今のところ自分は懐疑的だ。
エサを獲りに行かなくても生きて行ける生活ってのが、どうにも不老不死の薬のように思えてならない。
子供の頃、神社で拾っていたお金は、エサを獲りに行って拾ったお金だった。
確実に。
でも今回はそれとは違う。

とりあえずこの週末、土曜日曜は事務所に行かない。
月曜日、事務所に行ってまたドアの前にきちんと折り畳まれた千円札が置いてあったら、自分はいったいどうするだろう。
あるいは週末の分も合わせて三千円置かれているかもしれない。
2つ折のピン札が3枚。

ゲームハオワラナイ、エイエンニ・・・

9月とは思えない寝苦しい夜が、いっそう寝苦しさを増した週末の出来事だ。

2010年9月5日レッド石黒

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