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悪狗陀 狸人さんの遺書

父の末期がん記録〜スタンダード〜

亡父の三回忌を迎えたので、
二年前の記録を公表することにしました。
もちろん、個人差のある出来事なので
何が正しいかなんてわかりはしないけど、
しかし情報を開示していくのは
限定医療行為従事者としては必要だと考えた次第。

* この記録は2010秋〜2011春までの期間の出来事で、
がんに対する考え方、などは当時のママであります。


『父からの答え』

 掛川に往診するため、車で天竜川を渡っている時だった。急に胸が絞めつけられるような感じがして、ああ父が亡くなったのだな、と思った。三月の乾いた空は突き抜けるように青く、小さな白い雲が低く浮いていた。母からの携帯電話の着信がその事実を伝えた。
 僕は鍼灸師である。東京の大学を卒業できずプラプラしていて、カラダを壊したのをきっかけに資格を取った。長男だったので四十路を過ぎて田舎へ帰って、治療院を開いた。三年経って、父が病いを患った。
 
 これから書こうとすることは、至極個人的な記録だ。これを書くことがどんな意味を持つかはまだわからないけど、末期がんの父が「身」を持って僕に教えてくれたことを記そうと思う。もちろん、病態病状には個人差があるのはわかっているし、現代医学とは的ハズレのことを言うかもしれない。しかし、こういう往き方もあったんだ、ということを伝えなければ、と思ったのだ。

一、がんは悪い病気なのか?

 父のがんが見つかったのは、去年の六月。胆管狭窄で発熱した父が入院していた医療センターで、主治医に呼び出された。「十二指腸ファーター乳頭がん、ステージⅣ、余命三ヶ月です」

 さて、どうしようか、と僕は悩んだ。父は元々気が弱い性格だったが、老いてより神経質で過敏になり、取り越し苦労で母を困らせるようになっていた。とりあえず直接伝えるのは止め、母と弟と家族会議をした。選んだ結論は「告知なし、すなわち抗がん剤なし」だった。というのは、僕が近藤誠先生のがんに関する著作本を拝読していたことや、神奈川に住む弟が、父とこれから看病する僕らのことを考え「自然のママでいいよ」と後押してくれたことに因る。末期がん、しかも肝転移が認められるであろう類のがんに対して、わずか一ヶ月の延命、しかも副作用がある抗がん剤が果たして有効であるかは、自分なりに答えは出ていた。告知した場合の父の精神的混乱を想像するに、彼が抗がん剤投与の選択を冷静にできるとは僕には思えなかった。この家族のわがままな意思を最終的には尊重してくれた、主治医のH先生には今でも感謝している。
 
 考えようによっては、がんは悪い病気ではないかもしれない。事故や心筋梗塞などの突発的な病気とは違って、死までの緩やかな道程が予想できるからだ。本人にも家族にも、最期に向かっての準備する時間の猶予がある。
 「抗がん剤をやらない場合はどうなりますか?」という僕の問い掛けに、「坂道をゆっくり下るように、木が枯れるように往くのだと思います」と、セカンドオピニオンを伺いに行った藤沢のR先生は答えてくれた。そう遠くないところに死が待っているということは、僕はわかっていた。

二、生命の来るところ

 それから四ヶ月。余命宣告をされた三ヶ月を過ぎた晩秋の日曜の夕方、父は自宅で大量に吐血した。食道大静脈破裂だ。合併症として予想されたことだったが、救急車を呼ぶ母はいささか混乱していた。救急医のおかげで止血が成功し、父は一命を取り留めた。医療が発達していなかった一昔前なら、これでジ・エンド、だったと思う。
 
 入院中はほぼ毎日、病院へ行った。H先生が許可してくれたので、病室のベッドでお腹の水を散らす為の鍼灸治療をすることもできた。吐血後三日ほど経つと、腹水が溜ってきた。お腹がみるみる膨れてゆく。水はお腹で留まっていたが、これが足にも溜っていくと死期が近いことを意味する。もうこちらに戻っては来れない。
「そろそろ、でしょうか?」
「年越し、できないかもしれませんね…」と先生は言った。
 ところが、輸血、酸素の補気補血により父は少しだけ元気を取り戻した。年末には退院、自宅で年越しをした。まるで再びスイッチが入って電気が通じたみたいだった。床屋も行った、出前のラーメンも食べた。
 
 その時、僕は感じた。生命はどんなに文明が発達したって科学でわかるモノではなくって、カミのみぞ知る領域なんだと。自己治癒力という言葉があるけど、自分の内にそんな力があるわけではなくって、あっちの方からやって来るのではないかと。それをキャッチするのではないかと。まさに、仏教でいうところの虚空菩薩の教えみたいだ。すべては虚空からやって来て虚空へ還る。
 
三、最期の顔

 一月に入ってすぐ、悪寒戦慄で発熱し再び入院。しかし、寝たきりにはならず車椅子を使って自分で用を足し、病院の食事もとった。
 鍼灸師としての僕の希望は、肉体的な痛みなく最期を迎えてもらうことだった。腹水をステンレスより金の鍼でなんとか捌きつつ、それでもパンパンに膨れた足を診て「人は末端から死んでゆく」という師の教えを思い出した。

 「オレはそんなに悪い病気なのか?」と父は僕のいない時に、叔母に訊いた。僕に訊いたら本当のことを言われてしまうと、父は怖れたに違いない。父にはそういうところがあった。その頃には、自分なりに感づいていたのだ。
 痛みがやってきても、座薬でなんとか凌げた。痛いところには細い鍼を打った。この痛みはおそらく自律神経症状だったと思う。死への本能的な不安や怖れからくるものだろう。
 
 最期の一週間、下血をしてごはんが喉を通らなくなり、父は喋るのも面倒になった。ほとんど目も閉じたままだ。動かない。口渇が出てきて口を大きな綿棒で濡らす。タオルを置いてカラダが緩むようにベッドをセットした。鍼灸治療をしても使えるツボが少なくなってきた。もうおへその下の方までダメになってきた。使えるツボは何処だ。頭にお灸をした。
 酸素と点滴で命をなんとか繋いでいたある日、二人きりの病室で僕は父に話をした。最後に言いたかったことを話した。父は目を閉じたままで、その表情からは反応はわからなかったけど、確かに聴こえていたと思う。
 
 父があの世に旅立ったのは三月二日。余命宣告されてから八ヶ月。いちばん仲の良かった幼なじみの友人が見舞ってくれたすぐ後、往った。もちろん呼吸困難はあったけど、ほとんど痛みなく清々しい最期だった。息を引き取った父は、穏やかに微笑んでいるように見えた。
 僕は自問自答した。三月の乾いた空気を肺に吸い込み、ゆっくり吐き出す。これで本当に良かったのだろうか?自分はきちんと父を送ることができたのだろうか?
 父の死に顔の微笑みが、僕にその問いの答えを教えてくれたような気がしてならないのだ。
(「浜松市民文芸」第57集 市民文芸賞随筆部門受賞作を掲載)

2013年2月27日悪狗陀 狸人

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